2011年11月21日月曜日

科研費2011申請ラ米女性と国連

研究目的 概要

女性差別撤廃に関する世界的動向を理解するうえで、米国から始まったフェミニズムがラテンアメリカ社会に与えた影響と、ラテンアメリカ社会が内包する問題が欧米先進国フェミニズムへ与えた影響の実態を知ることは欠かせない。本研究では、これまで見落とされがちであったラテンアメリカの女性たちを取り巻く現状と、欧米先進国から生まれたフェミニズムの思想的立場の相克関係に焦点を当て、ラテンアメリカ女性たちの運動が、世界的な女性差別撤廃の取り組みに果たしてきた役割の再評価を試みる。また、日本で取り組まれている女性の貧困化や女性への暴力の問題をグローバルな文脈の中に位置づけることも併せて行う。

研究の学術的背景および学術的特色

 1975年、メキシコで国連主催による第一回世界女性会議が開催された。これ以降、女性差別撤廃への取り組みが世界的に普及し、日本においても、国連の取り組みに歩調を合わせる形で種々の法的整備が実施されてきた。


 メキシコ世界女性会議では、女性への差別を撤廃していくための「行動計画」が決定され、「国際婦人の10年」の間に世界的に女性差別撤廃の運動が普及していった。1995年第4回北京世界女性会議では、世界の女性の貧困化、女性への暴力の問題への取り組みを柱とする「北京宣言」が採択された。この間、1993年にウイーンで開催された世界人権会議では、女性に対する暴力は人権問題と位置付けられ、「ウイーン宣言及び行動計画」で、公的及び私的な生活における女性に対する暴力の撤廃が示された。また、1993年の第48回国連総会では、「女性に対する暴力の撤廃に関する宣言」が採択された。そして、1999年には国連で、カリブ海に位置するドミニカ共和国において反政府運動を行っていたミラバル姉妹が独裁政権に虐殺された日である19601125日を「女性に対する暴力撤廃の国際デー」とすることが採択された。


 これらの国連の一連の取り組みの柱となった「女性への暴力の問題」、「女性の貧困化の問題」は、もとはと言えばラテンアメリカの女性たちが直面していた深刻な問題であり、当初から、ラテンアメリカの女性たちが世界女性会議などで対応の必要性を指摘していた課題であった。日本へも直接に影響を与えることになった1970年代から1990年代にかけての世界的な女性差別撤廃の動きは、ラテンアメリカを起源とする部分が多かったのである。

 例えば、1975年のメキシコ世界女性会議において、ボリビアから出席した炭坑労働者リーダーのドミティーラ・デ・チュンガラ(Domitila B. De Chungara)は、米国のフェミニストや、会議を主催した上層階級出身のメキシコのフェミニストたちを、ブルジョワ・フェミニストと呼んで批判した。彼女は、貧困にあえぐボリビアの炭坑労働者たちにとって、女性解放などブルジョワ的なたわごとに過ぎず問題にもならない、と主張し、会議は紛糾した。会議そのものは紛糾し、物別れに終わったが、以後、欧米フェミニズムのなかに、世界に存在する格差への問題、環境破壊の問題への視野が広がり、フェミニズムそのものに広がりと厚みが生まれた。逆に、ラテンアメリカ社会にもフェミニズムの思想が浸透し、女性の立場の改善への動きが大きく前進した。また、国連のなかでは、ラテンアメリカ女性たちが提起した女性の貧困化の問題、女性と格差の問題、女性に対する暴力の問題へと目が向けられるようになっていった。

 一方、メキシコ世界女性会議で、会議を主導したフェミニストたちを批判したラテンアメリカの女性たちは、1981年に、第1回ラテンアメリカ・カリブ地域フェミニズム集会を、コロンビアのボゴタで開催し、以後2年おきにラテンアメリカ各地において集会を開催し現在に至っている。第一回会議では、上述のようにカリブ海のドミニカ共和国で1960年にトゥルヒージョ独裁体制の犠牲となったミラバル3姉妹が虐殺された1125日を「女性への暴力反対の日」とした。これを受け、国連でも1999年に、同日を「女性に対する暴力撤廃の国際デー」とすることになった。また、1995年の北京での世界女性会議では、女性に対する暴力への世界的取り組みが宣言されるなど、ラテンアメリカ・カリブ地域フェミニズム集会の影響は大きい。

日本のジェンダー研究においては、欧米先進国のフェミニズムに関する研究の蓄積はあるが、開発途上国におけるフェミニズムについては、研究が手薄の状態である。また、ラテンアメリカ研究の分野では、本研究者も参加し、10年ほど前にラテンアメリカ研究者が結集して、ラテンアメリカ女性に関する研究書が出版された(国本伊代編『ラテンアメリカ、新しい社会と女性』新評論2000)。しかし、対象がラテンアメリカ地域に限られており、国連との関係やアメリカ・フェミニズムとの関係までは視野に含まれていない。日本の学界を見ても、各国の女性運動の研究の蓄積はあるものの、ラテンアメリカの全体的な動向を扱っている研究は少ない。

 一方、米国におけるジェンダー研究に目を向けると、ポストコロニアル・フェミニズムの先駆者、メキシコ系アメリカ人グロリア・アンサルドゥアによる「境界線上のアイデンティティ」の思想、「周辺に位置する女性の声」という視点から女性運動を展開し、ノーベル平和賞を受賞したグアテマラの先住民女性リゴベルタ・メンチュウの闘いを取り上げた研究は多い。最近では前述のボリビア人女性労働者、ドミティーラ・デ・チュンガラが、ポスト・コロニアリズムの重要な思想家の一人として取り上げられるようにもなってきている(Bill Ashcroft, et al. Post-Colonial Studies: The Key Concepts, Routledge, New York, 2007)。しかし、欧米フェミニズムとラテンアメリカの女性たちの運動との相互影響に関する研究は少ない。その原因としては、ラテンアメリカのフェミニストたちにある根強い反米思想が影響していることが考えられる。欧米先進国のフェミニズムとは一線を画したいという姿勢が、ラテンアメリカ女性運動指導者たちの間には根強い。この点に関して本研究者は、日本人として両者の政治的対立からは相対的に自由であり得る利点を生かし、より客観的な調査・分析の視点を提供し得る。

 また、本研究者はこれまで、文化的にも政治的にもアメリカとラテンアメリカ社会の中間地域として位置づけられるプエルトリコにおけるフェミニズムの研究を蓄積してきた。本研究は、アメリカのフェミニズムと深いつながりを保ちながら、ラテンアメリカ社会のフェミニズムに深く関与してきた多くのプエルトリコのフェミニストたちとの会話から着想を得ている。ラティーノ化するアメリカ社会のなかで、プエルトリコ人女性たちがアメリカ社会のなかで重要な役目を果たしていく態様を知るなかで、欧米先進国フェミニズムにラテンアメリカ女性たちが与えてきた影響の大きさに着目するに至った。そして、グローバル化するフェミニズムの動向をその背景から十分に理解していくために必要な研究となると考え、当研究に取り組むに至った

2010年5月19日水曜日

07-11 kakenhi

1) 研究の学術的背景

  本研究は、米国およびプエルトリコにおいてマイノリティの立場にあるプエルトリコ人女性たちがそれぞれの社会において一定の権限を持つ行政ポストに任用さ れている状況を具体的に明らかにし、それぞれのケースが当該社会におけるジェンダーをめぐる政治の中でどう位置づけられるか分析することを通じて、米国と プエルトリコの間、そしてそれぞれの社会の中に存在する植民地的状況とジェンダーの関係が、現在どのような状態にあるかを明らかにすることを目的としてい る。

  1898年以来現在に至るまでプエルトリコが米国領土であるという状況は基本的に変わっていない。その中でプエルトリコは、1950年代以降、米国資本招 致による一定の経済成長を達成したが、米国連邦諸州との経済格差は縮まっていない。この間、多くの島民が米国本土へ移り住み、その数は今や島人口に匹敵し ているが、その多くは、貧困、失業、義務教育からのドロップアウトなど、困難な生活を強いられている。それに加え、いずれの社会においても女性たちは、一 人で家計を支え子供の教育の責任を負い、DVの被害者となる確率が高いなど、さらに厳しい条件を課せられている。

 しかし、このような事実からプエルトリコ人女性を「周辺化された存在」としてのみ捉えるならば、それは彼女らを植民地的状況の受動的な被害者としてしか見ず、彼女らの主体性を無視することになるのであり、またそれは現実の彼女らの姿とも異なっているように思われる。

  本研究者はこれまでプエルトリコ女性とナショナリズムの関係について研究を行なってきたが、その過程で、米国議会でのロビー活動、米国女性団体との連携、 米国本土での政治的影響力の島での運動への利用など、プエルトリコ女性運動の活動家たちによる米国と島の関係を逆手に取ったとも言える行動事例を多く目に してきた。現存する制度のなかで可能な条件を最大限に利用するという現実的選択は、植民地的状況を逆に能動的に利用して自らの立場をより有利なものへ変えようとする取り組みとして評価可能である。またそれは、独立=非独立、反米=親米といった旧来の対立軸に基づく政治対立の構図にパラダイム転換を迫るものともなっている。

このような取り組みの一つの結果として、米国やプエルトリコの行政機構の中で、女性に直接関わる政策立案や施策実行に一定の権限を有するポストにプエルトリコ人女性が任用される事例が広がりを見せつつある。一つの代表例は、1990年に米国公衆衛生局長官に任命されたAntonia Novelloであるが、本研究者によるプエルトリコ人コミュニティ活動に関する調査の中でも、プエルトリコ系住民の比率が高いフロリダ州オーランド郡知事補佐官やマサチューセッツ州ホリオーク市長補佐官など、地方行政機構の要職にプエルトリコ人女性が任用されている例は少なくない。

勿 論これによってプエルトリコ人女性の置かれてきた状況が直ちに好転するというものではない。また、行政ポストへの任用がプエルトリコ系住民をはじめとする ヒスパニック系有権者の支持を得ることを目的として、単に植民地的状況の現状維持に利用される結果になっている可能性も否めない。しかしながらプエルトリ コが米国の諸制度の中に植民地として組み込まれた結果として、プエルトリコ人女性が新たな教育機会を獲得し、運動を展開するスペースを獲得してきたことは 事実である。上記のようなプエルトリコ人女性の行政ポストへの任用の拡大はそのような背景を前提としている。また、そのような任用が例え選挙目当ての政治 的判断の産物であったとしても、結果的にプエルトリコ人女性の置かれている状況が実質的に改善される効果がもらたらされる可能性は高い。実態はどうなの か。本研究はその解明を目指している。

1) 研究の学術的背景

  本研究は、米国およびプエルトリコにおいてマイノリティの立場にあるプエルトリコ人女性たちがそれぞれの社会において一定の権限を持つ行政ポストに任用さ れている状況を具体的に明らかにし、それぞれのケースが当該社会におけるジェンダーをめぐる政治の中でどう位置づけられるか分析することを通じて、米国と プエルトリコの間、そしてそれぞれの社会の中に存在する植民地的状況とジェンダーの関係が、現在どのような状態にあるかを明らかにすることを目的としてい る。

  1898年以来現在に至るまでプエルトリコが米国領土であるという状況は基本的に変わっていない。その中でプエルトリコは、1950年代以降、米国資本招 致による一定の経済成長を達成したが、米国連邦諸州との経済格差は縮まっていない。この間、多くの島民が米国本土へ移り住み、その数は今や島人口に匹敵し ているが、その多くは、貧困、失業、義務教育からのドロップアウトなど、困難な生活を強いられている。それに加え、いずれの社会においても女性たちは、一 人で家計を支え子供の教育の責任を負い、DVの被害者となる確率が高いなど、さらに厳しい条件を課せられている。

 しかし、このような事実からプエルトリコ人女性を「周辺化された存在」としてのみ捉えるならば、それは彼女らを植民地的状況の受動的な被害者としてしか見ず、彼女らの主体性を無視することになるのであり、またそれは現実の彼女らの姿とも異なっているように思われる。

  本研究者はこれまでプエルトリコ女性とナショナリズムの関係について研究を行なってきたが、その過程で、米国議会でのロビー活動、米国女性団体との連携、 米国本土での政治的影響力の島での運動への利用など、プエルトリコ女性運動の活動家たちによる米国と島の関係を逆手に取ったとも言える行動事例を多く目に してきた。現存する制度のなかで可能な条件を最大限に利用するという現実的選択は、植民地的状況を逆に能動的に利用して自らの立場をより有利なものへ変えようとする取り組みとして評価可能である。またそれは、独立=非独立、反米=親米といった旧来の対立軸に基づく政治対立の構図にパラダイム転換を迫るものともなっている。

このような取り組みの一つの結果として、米国やプエルトリコの行政機構の中で、女性に直接関わる政策立案や施策実行に一定の権限を有するポストにプエルトリコ人女性が任用される事例が広がりを見せつつある。一つの代表例は、1990年に米国公衆衛生局長官に任命されたAntonia Novelloであるが、本研究者によるプエルトリコ人コミュニティ活動に関する調査の中でも、プエルトリコ系住民の比率が高いフロリダ州オーランド郡知事補佐官やマサチューセッツ州ホリオーク市長補佐官など、地方行政機構の要職にプエルトリコ人女性が任用されている例は少なくない。

勿 論これによってプエルトリコ人女性の置かれてきた状況が直ちに好転するというものではない。また、行政ポストへの任用がプエルトリコ系住民をはじめとする ヒスパニック系有権者の支持を得ることを目的として、単に植民地的状況の現状維持に利用される結果になっている可能性も否めない。しかしながらプエルトリ コが米国の諸制度の中に植民地として組み込まれた結果として、プエルトリコ人女性が新たな教育機会を獲得し、運動を展開するスペースを獲得してきたことは 事実である。上記のようなプエルトリコ人女性の行政ポストへの任用の拡大はそのような背景を前提としている。また、そのような任用が例え選挙目当ての政治 的判断の産物であったとしても、結果的にプエルトリコ人女性の置かれている状況が実質的に改善される効果がもらたらされる可能性は高い。実態はどうなの か。本研究はその解明を目指している。

研究目的

プエルトリコの島の女性に関する研究は、1980年代以降数多く出版されてきたAzize-Várgaz, 1985, Acosta-Belén, 1986, Rivera Lassén and Crespo Kebler, 2001など)。一方、米国本土のプエルトリコ人女性に関しては、米国唯一のプエルトリコ研究センターを持つニューヨーク市立大学ハンターカレッジが1980年代以降、ニューヨークを中心としたコミュニティ女性たちに関する調査研究を実施している(Benmayor, et al., 1987, 1992など)。また活動家自身による記録やそのほかの研究者による独自のコミュニティ活動の研究成果も公にされるようになってきている(Pantoja, 2002, Pérez, 2004)。しかし、いずれも研究対象が特定の地域に限定され、またコミュニティ活動に焦点が当てられており、行政機関の中で活動するプエルトリコ人女性を取り上げた研究は皆無と言ってよい状況である。

2)何をどこまで明らかにするか。

 上述の目的を達成するために、以下の具体的な研究課題を設定し、研究を進める。

1. 米国およびプエルトリコにおけるさまざまな地域、さまざまなレベルでプエルトリコ人女性の行政ポストへの任用はどの程度進んでいるか。

2. 行政側がプエルトリコ人女性を一定の権限を有するポストに任用するにいたった直接・間接的な理由は何か。特に、ジェンダーをめぐる政治がそこにはどのように作用していると言えるか。

3. 米国社会において居住環境、教育、医療・保健、福祉の分野でプエルトリコ系住民、特に女性を取り巻く状況に、上記1はどのような変化をもたらしているか。プエルトリコ社会ではどうか。

4. 植民地的状況とジェンダーとの関係という視点から見た場合、上記の1〜3についてどのような特徴や変化を見いだすことができるか。

5. 上記1〜4から得られた知見は、植民地的状況とジェンダーをめぐる理解の深化に向けてどのような貢献をし得ると言えるか。


3)学術的な特色・独創的な点および予想される結果と意義

1. 本研究は、今なお脱植民地化が未完成の社会におけるジェンダーの問題に関する事例研究であり、ジェンダーとナショナリズムの関係を理論化する上で重要な貢献を成しうる研究である。

2. 本研究は、中心=周辺、植民地主義=被植民者、マジョリティ=マイノリティという二項対立に基づく研究からは欠落しがちな課題に取り組むことでジェンダーをめぐる議論に新たな視点を提供するものである。

3. 同時に本研究は、日本のジェンダー研究に欠落しがちである主権国家内の周辺地域あるいは主権国家内のマイノリティ集団に焦点を当てるものである。

4. 日本人研究者として現地の政治的対立からは相対的に自由であり得るという立場の利点を最大限に生かすことによって、客観的な調査・分析の視点を現地研究者らに提供することができる。

<引用文献>

Acosta-Belén, E., Ed. 1986. The Puerto Rican Women: Perspectives on Culuture, History, and Society.

Azize-Várgaz, Y. 1985, la mujer en la lucha.

Benmayor, R., A. Juarbe, C. Alvarez, B. Vázquez. 1987. Stories to Live By: Continuity and Change in Three Generations of Puerto Rican Women.

Benmayor, R., R. M. Torruellas, A. L. Juarbe. 1992. Responses to poverty among Puerto Rican Women Identity, community and Cultural Citizenship.

Colón-Warren, A. 1995. "Investigación y acción feminista en el Puerto Rico contemporaneo: notas desde un punto en su intersección y movimiento temtico", Caribbean Studies, Vol. 28, No. 1, January - June 1995, pp.163-196.

Pérez, G. M. 2004. The Near Northwest Side Story: Migration, Displacement, & Puerto Rican Families.

Pantoja, A. 2002. Memoir of a Visionary: Antonia Pantoja.

Rivera Lassén, A. I., and E. Crespo Kebler. 2001. Documentos del feminismo en Puerto Rico: Facsímiles de la historia, Volumen 1, 1970-1979.

研究計画

米国内でプエルトリコ人住民が一定程度集住している郡や市の中から、従来よりプエルトリコ系住民が集中し個別研究も比較的に蓄積されているニューヨーク、シカゴを除外し、特徴的な条件を備えている地域を選択して調査研究の対象とする。本研究では、米国領土内に散らばる、図1に示した5つの地域について調査を行い、さらにこれら地域間の比較を行う。各地域の概要は表2のとおりである。特にこのうちのHartford / HolyokeOrlando / Kissimmieについて重点的な調査を実施し、他の地域と併せて比較を行い、プエルトリコ系住民と地方行政・政治との関係の全体像の構築をめざす。

調査研究全般

Dr. Edna Acosta-Belén, Director, Center for Latino, Latin American, and Caribbean Studies (CELAC), State University of New York-Albany

Massachusetts / Connecticut

Dr. Agustín Laó-Montes, Department of Sociology, University of Massachusetts, Amherst 

Ms. Kathleen Anderson, Director, Office of Economic and Industrial Development, Holyoke

Central Florida

Dr. Félix Matos-Rodríguez, Director, Center for Puerto Rican Studies, City University of New York, Hunter College

Ms. Linda Herández, Executive Director, El Nuevo Día, Orlando

U. S. Virgin Islands

Mr. Wallace D. Williams, Territorial Librarian, Division of Libraries, St. Croix, USVI

California

Dr. Ramón Grosfoguel, Center for Latin American Studies, University of California, Berkeley

Hawaii

Dr. Austin Dias, Department of Languages and Literatures of Europe and the Americas, University of Hawaii, Manoa



07-11
米国・プエルトリコの行政職へのプエルトリコ人女性の任用とジェンダーをめぐる政治

 夏、春の授業休業期間を利用し、California Orange County, Massachusetts 州 Springfield市、Holyoke市、 Florida州 Orlando 市、 Kissimmie 市、現地調査を実施した。初年度であり、資料収集、面接調査対象者のリストアップ、連絡調整、予備的面接調査を実施した。

 オレンジカウンティでは、バイリンガル教育の教員組織長を務めたアナイダ氏に面接調査を行った。スプリングフィールドでは、ヒスパニック子弟の教育問題を解決するために教育庁のスタッフに採用されたプエルトリコ人女性らに現地のバイリンガル教育などの問題に関する面接調査を実施した。フロリダ州では、ヒスパニック住民との行政上のアドバイザーとして採用されたプエルトリコ人女性らに現地の様子および任用過程などに関して面接調査を行った。

 これらの予備調査の結果、行政側は、増加するヒスパニック人口に対応する必要性に迫られ、コミュニティ活動の経験豊かなプエルトリコ人を採用するなどの経過が観察された。特にプエルトリコ人女性には教育水準が高い人も多く、それらの女性が教育や政治的経歴を買われて行政アドバイザーなどに任用されるケースが目立つ。

 また、カリフォルニアでは、公民権運動が盛んになる以前に、人種隔離政策に反対した訴訟を起こしたメキシコ人、プエルトリコ人家族があり、その娘およびその経緯を学校教育に取り組む運動をしているメキシコ人女性とも面接調査をすることができた。アメリカ社会のなかで今後再認識されようとしている新たな事項に偶然にも遭遇することができ有意義であり、今後の研究の深化に役立てたい。

08 c-7-1 実績報告
 夏、春の授業休業期間を利用し、California州Fremont, Massachusetts 州 Springfield市、Holyoke市の現地調査を実施した。
 サンフランシスコで青少年向け刑務所の行政を担当しているプエルトリコ人女性に現地での生活に関する面接調査実施した。また、60年代にプエルトリコからカリフォルニアに移住した女性たち、現在ニューヨークからカリフォルニア大学へ大学院進学し、プエルトリコ文化活動をしている女性たちから現地での活動の様子やアイデンティティの問題などに関して面接調査を行った。移住の歴史的側面と専門職らが近年になり移住増加が見られることなどが判明した。また、各種団体との面接調査で、ホリヨーク市やスプリングフィールド市では、保健衛生方面での青少年教育プログラムなどに女性たちコミュニティ活動リーダーらが活躍している実態が判明した。行政側は、増加するヒスパニック人口に対応する必要性に迫られ、コミュニティ活動の経験豊かなプエルトリコ人を採用するなどの経過が明らかになった。特にプエルトリコ人女性には教育水準が高い人も多く、それらの女性が教育や政治的経歴を買われて行政アドバイザーなどに任用されるケースが目立つ。

09 c-7-1 実績報告
 夏、春の授業休業期間を利用し、Massachusetts 州 Lawrence,Boston, New Jersey州 Jersey Cityおよび Perth Amboy市の現地調査を実施した。
 ローレンスでは、増加するドミニカ共和国出身の移民グループとの共存がプエルトリコ系住民の課題としてあり、ボストンにあるVilla Victoriaのプエルトリコ人居住区では中国系住民との共存が課題として浮上していた。低所得者層の大半が女性世帯主の家庭層であり、生活権の課題を女性たちが中心となって解決に向けて取り組んでいた。また、パーサンボーイではアメリカ本土初のプエルトリコ人女性市長が誕生し、選挙母体が女性団体であったことなどの経過について面接調査を実施した。

10 c-7-1

夏、春の授業休業期間を利用し、New York City, New Jersey New Ark市、Paterson市にて現地調査を実施した。

New Jerseyニューアーク市図書館New Ark Library Spanish Collection にて、図書館が実施しているオーラルヒストリープロジェクトの資料を収集する。現在、ニューアーク市はアフリカ系アメリカ人とプエルトリコ人を中心としてヒスパニック系が半々の状態である。古くからの工業地帯であり、工業の衰退時期にプエルトリコ人労働者がニューアーク市に居住し始めて現在に至る市民の歴史資料などを中心に収集した。同じくパターソン市でも資料収集および市学芸員から市の歴史などの説明を受ける。Great Fall of Passaicの近くで歴史地区にされてりう。。ニュージャージ州ではパターソンとカムデンが19世紀の工業地帯であい、そこへプエルトリコ人が移住した。パターソン市では、コルトの銃会社が初めて設立されたが、倒産してマサチューセッツに移って成功している。シルクシティと名。シルク生産の世界の中心地として栄えた。商業上の潜水艦が初めて作られたとこであり、大西洋横断のリンデンバーグの飛行機が作られたことでも有名である。もともとアフリカ系住民が多く黒人野球リーグの中心地であった。現在3割白人、3割黒人、3割ヒスパニック。プエルトリコ人14%、ドミニカ人は3番目、ペルー人の移民が目立つ。

ニューヨークでは、ニューヨーク市立大学、プエルトリコ研究所において、バイリンガル教育に関わる資料収集などを実施した。